きらいになれないときは

日記とフィクション

エトセトラ

 

「エンコン、じゃないですかねー」雨の中、坂の上にあるコインパーキングに停めた車まで歩きながら杉山は言った。

「縁、婚。めでたいね〜」と返すと怪訝な顔をされる。「エンもコンもめでたいじゃん」と付け加えるように言うと、ため息を吐きながらまぁそれくらいに考えておかないと変になりますよねとぶつぶつ独り言のように杉山は言った。

車に着くと杉山は運転席に座ろうとするのでわたしは運転を代わることを申し出た。杉山の顔は明らかに疲れていて眉間の皺も深い。呑気に昼の日差しを甘受しているわたしが帰路くらい杉山を休ませてやるのもいいだろうと思った。

だが杉山は「鮎川さんに任せたら僕本当に疲れちゃうんで」と怒りながらキーを刺す。「頼らなくてごめんなあ。3つも年上なのになあ」とドリンクホルダーのぬるくなったフルーツオレをグジュグジュ飲むと「先輩だとは思ってますけど、鮎川さんが僕より年上だとは思ったことありませんね」と冷たく返されてしまった。

かわいい後輩のもとで働けて嬉しいなと軽口を交わすとそこからはしばらく黙り込む。郊外から23区内までの道はどんどん狭くなっていくので運転には注意が必要だ。大学4年生で免許を取得したという杉山は都会っ子と言うこともあり、会社に入るまではほとんど運転をしたことがないという。法定速度をきちんと守り、高速道路でも無理な追い抜きはしない。「みだりな車線変更はよくないからね」と30分経ったくらいで急に言うと、この渋滞じゃ車の上に乗りでもしないくらい動けないですよと珍しく軽口で返事をされる。急いで帰らなくてはいけなかったけれど、首都高手前の事故のせいで大きな渋滞が続いていたのでさすがの杉山も力が抜けてきたらしい。この様子だと予定より大幅に帰社が遅れそうなのでPCを取り出して締切直後だった資料だけ軽くまとめて上長へ投げた。それから電話して、この後の会議はスキップすることともうこのまま帰ることを告げるとカーラジオからBluetooth接続へ変更して音楽を流し始めた。もう夏も終わり、日が落ちるのが早くなったのでどっぷり夜のような気分になる。思い切って夜の高速っぽくシティポップでも長そうと思いながら適当に曲を漁る。イントロ3秒くらいを聴いて選曲するわたしを横目に杉山は落ちつかない様子だ。

「ずっと思ってたんですけど、鮎川さんは彼氏いないんですか?」と訊く杉山は前を向いて質問自体にはあまり興味なさげだ。「いないね〜、杉山は?」社内の人間と意味のない世間話が出来ることが嬉しくて思わず聞き返す。小さな規模の会社で新入社員が同じ部署に入ることもなかなかない為、年齢の近い者と話せることだけで業務中は心が落ち着く。そのせいもあり2年前に入って来た杉山にはずいぶん馴れ馴れしくしてきたが、日々つんと冷たいのでろくな話はして来なかった。わたしから一方的にどうでもいいことを聞かせることはあれど、まともに杉山と会話しているのは午後の天気、台風の予測、夜中にあった地震のことなど、別に年の離れたおじさん相手にも出来る話ばかりだったので、今日の話題は特にウキウキした気持ちになる。「僕はモテるので彼女とかはいらないです」と答える杉山はやはり都会っ子、シティボーイだ。へらへら笑い返すとわたしは流れる音楽といくつも並ぶ道路脇の照明の世界に没入する。あー早く帰りたい、と思うけどそんなことを口に出してはまた杉山の眉間の皺が深くなってしまう。今日は金曜だと言うのになんだかもったいない。「この車、今日会社に返さなきゃいけないんだっけ?」「いや、別に平気ですけど車は置いて帰ります」「千葉だもんね、家」「一応ぎりぎり東京です」「そうかあー」「鮎川さんは練馬の方ですよね、送ります」そう言われてハッとする。やばい、今日は約束している日だった。

「ごめん、今日友達と用事あるからわたしも駐車場まで乗せて。もう仕事したくないから会社には寄らないけど」と言うと男ですか、と杉山がからかってくる。そうだよ、と言うと信じていないのか薄ら笑いで楽しんでくださいねと言う。杉山は可愛げのない後輩でかわいい。

今日これから会う男は本当に可愛くないから、なんだかわたしは嫌になってくる。2つ年上の癖にいつでもお金がなく飲み代はいつもわたしが多めに出してカラオケへ行けばそこは私持ちである。わたしよりもお酒を飲み、わたしよりも歌を歌い、背は高くて隣を連れて歩くには気分がいいが、それ以外は不快だ。なぜそんな男と遊ばなきゃいけないのか、自分ではうまく説明ができない。ストーカー気質な男が怖いから仕方なく付き合っているとも言えるけど、暇な時間が嫌いだからという理由の方が大きい気がする。確か待ち合わせは新宿だった気がする。一旦家に帰っても良かったが、会社帰りで疲れた感じを出して早めに解散したいという言い訳が真っ先に浮かんだ。

「鮎川さんはいつも適当でぼーっとしてますけど、ちゃんと男は選んでいるんですか」やたらと今日はわたしのプライベートに突っ込んでくる杉山がなんだかおかしくて真面目なトーンを作り答えてみる。

「エンコンで嫌がらせを受けるくらいには」

ニヤつきそうな口元を引き締めてさっと右を向いておちゃらけようとすると、さっきよりも眉間の皺を深くした杉山がこちらを見ていた。批判的な目だ。わたしに呆れた目で見られるのが惨めに感じ、縁も婚もめでたいじゃないか。っていうか、エンコンってなんだ。こんな日々を無責任に過ごすわたしに、誰かがエネルギーを使って恨むことなんてあるのか、というわたしの反抗的な意見を含む目線を返す。

「鮎川さんは、こう、もっと責任を持って日々を過ごすべきです」「コンドームを付けさせろってこと?」「ジョークの質が最低です」

ようやく渋滞から抜け出せ、気がつけば用賀を越えた付近だ。あとちょっとで帰れる。正確に言えばこの後の適当な飲み会を終えれば帰れる。家に帰っても気は抜けないと杉山には言われたが、別にわたしの身に何が起こっても別にどうでもいいような気がする。

昼間、久しぶりに遠方の相手へ杉山を紹介がてら商談へ行った際に皆で近くの蕎麦屋で食事を取った。相手方はおじさんばかりでわたしをチヤホヤするので「浮いた話はないのかい」なんて親戚みたいな話題を振られた。ざるそばが思ったより美味しく、どうせ奢ってもらえるからと大盛りを頼んで正解だと浮かれながら、いつも通り適当に場を盛り上げようと最近の生活について触れた。「ないない、ないですー。でも最近妙な、幽霊みたいのには好かれてますね。郵便ポストの中が全部水道屋のマグネットになってたり、玄関のドアに大量のツナ缶がかかってたりしました。ツナ缶、期限は切れてなかったけどブキミだったんで放置してたら、1週間後、全部空のツナ缶になってました」その場のおじさんたちはええっと笑いながらそれはホラーだとやんややんや言いながら、これまで起きた身の回りのホラー体験へと話題が移ったのだった。

その後、取引先から離れてから杉山は真面目な顔をして「わざわざ空のツナ缶を放置するなんて、嫌がらせ以外の何者でもないですよ」と言った。いや、ツナ缶はちゃんと綺麗に洗ってあったし綺麗だったんだよ。別にわたしは迷惑してないし何も困ってないのだ。そう思ったけど、そう言ってアレコレ言われるのも面倒だった。おじさんたちの前では言わなかったが、これまで杉山にはわたしの身の回りで起こるホラー体験はちょこちょこ聞かせてきた。カラオケに1人で行った際にトイレに行って戻って来たら曲が全部PUFFYの『渚にまつわるエトセトラ』で10曲くらい予約されていた話をした時には「早く警察に行ったほうがよくないですか?」と顔を引き攣らせながら言っていた。いや、わたしはPUFFY好きだからいいんだけどな。エンコン、でPUFFYをそんなに入れるだろうか。うっすら今日会う男がそんなことをしているのではと思ったけれど、わたしのことをつけ回すなんてことはあいつのプライドが許さないはずだ。しつこく連絡してきて呼び出すことはしても、わざわざわたしの仕事帰りの時間にオフィス街付近へ来るなんてことはしないだろう。

「杉山は普段どういう子と遊んでるの」話題を変えようと、質問をしてみる。わたしの意図に気づきムスッとしながらも杉山は答える。

「自分の意思がない、頭の軽そうな子です。扱いやすいから。面倒なことを言うようになったら、LINEをブロックします、それで終わりです」ある意味予想通りの返答に笑ってしまう。シティボーイというか、現代のモテ人間というか、潔い。「しつこいのは嫌いなんだね、いいね」「しつこいというか、そもそも相手自体にはそれほど興味なく遊んでいるのに僕がなんでお守りしなきゃいけないんだって思いますね。急に嫉妬されたり、定期的に会ってほしいならきちんと段階を踏んだ、時間をかけた付き合いをするべきです」「まともだー」とまたわたしは笑う。それくらいが丁度いい。今日の男も妙なわたしへの愛情ポエムを語らずにそうやってホテルまで連れて行ってくれたらいいのに。気がつけばまたあいつのことを考えてしまう。不快な感情はゆっくり形になっていくもので、それが溜まり溜まれば急に縁を切りたくなるものだ。やっぱり今日はすっぽかそう。それから杉山みたいにあいつのLINEはブロックしようと決める。「ムカつくもんね、粘着質は」とiPhoneをポチポチしながら続けると「誰に言ってるんですか?」と杉山は訊く。答えずに男のLINEアカウントを見つけブロックしようとするわたしに杉山は言った。

「鮎川さん、今日の約束はどうでもいいやつですか?」

「そうだね、今なくなった。」「なくなったんですか?」「なくした」「適当だなあ」「ずっとそうでしょ、わたしは」「そうですね」「そうだよ」

「鮎川さん」と杉山は言う。会社近くのたまにランチへ行くラーメン屋が目に入る。あ、もうこんなに来てたんだと言おうと顔を上げると丁度車が停止した。「鮎川さん、いい加減気づかないふりするのやめてもらっていいですか」

「ん?」と目を丸くしてみせると杉山はまた険しい顔で眉間の皺はもう深く深く刻まれている。「鮎川さんは、適当すぎます。無責任すぎます。もっと自分に関心を持ってください。気を抜く相手を選んでください。気がついたらPASMOに1万円チャージされてるのも、考えたら怖い話ですから、ちゃんと怖がってください、ラッキーじゃないんですよ」

ああ、それは先週の出来事だな。財布を失くして遺失物届けを出したらすぐに自分の元へ返ってきたが、何故か中身を失うどころかPASMOの残高が増えていたのだ。と頭に浮かべると、わたしの後頭部を杉山が触っていた。髪を結んでいるから、強く触ればボサボサになってしまうので困る。「わ!なになに!やめてー」と笑うと杉山は完全に怒っていた。

「僕が今、鮎川さんにキスしても鮎川さんはまた笑いますよね。適当に笑って誤魔化して何もなかったふうにする。なんでそんなにふわっとしてるんですか。」そう言われても、実際そうされたところでわたしは笑う以外の術を知らない。笑って、誤魔化して、それから次に会う時は普通に挨拶をするだろう。「頭空っぽの女は嫌いなんでしょ、杉山は。意思がなくて、無責任な女は嫌いでしょう。それなら別にいいじゃない」返答に困り、苦し紛れの言葉を出す。直帰すると言っておきながら会社近くの社用車内で後輩といる姿を誰かに見られないかが心配で通りに目をやる。「鮎川さんのことは、本当に嫌いです」そう言うと杉山は車を出して駐車場まで向かった。無言の状態が気まずかったがこれ以上杉山の機嫌を損ねる訳にはいかない。シンセサイザーの音がこれまでより大きく聴こえるのも、見知った景色の中ではうざったくなり音を止めた。車が進む音だけがして、わたしはひたすらに頭の中で『渚にまつわるエトセトラ』のAメロを思い出していた。

車を停めるとわたしはすぐに車を降りた。「商材とか、このまま置いて行っていい?」と訊くと杉山は無愛想に返事をした。会社に寄ってから帰るという彼を背にわたしは歩き出す。そのまま駅に向かうのも躊躇われてコンビニに寄って、アイスコーヒーを淹れるカップを購入してレジに並ぶとPayPayの残高が足りない。やっぱりPASMOにチャージされていたのはラッキーだったじゃないかと杉山に対する柔らかな怒りを抱えながらレジを終える。思わずため息を漏らしながら店を出た先に杉山が立っていたので「おつかれー」と挨拶をしてすり抜けようとした。明らかにわたしを待っていただろう杉山は無言でこちらに付いてくる。瞬間的に、反応していけないと思った。彼に対する関心を見せてはいけない。「なんで待ってたの?」とか「さっきのはどういう意味?」とかの質問をしてはいけない。ただまっすぐに地下鉄に向かうわなくてはいけないけれど、すぐに腕を掴まれる。

「鮎川さん」もうほぼ泣きそうになっている杉山に対して、わたしは何も言うことがない。ただかわいい後輩だと思う。真面目で、責任感があり、世渡りはうまいのにどうやら自分が真剣になるのには慣れていない、現代っ子

ただ名前を呼ぶことしかできない。自分の気持ちを言葉にはできないけど、感情は剥き出しになっている。そういう状態になっている時の人間は冷静な判断が下せない。だからこそ冷静な側の人間が優しく導いてあげないといけないけれど、無責任で気まぐれで奔放で杉山から嫌われているわたしはあいにく彼に優しくしてあげる義理はない。

「杉山」名前だけ呼び返すとわたしはへらへら笑って言う。「飲みに行こうか」

眉間の皺がほぐれて、口角が上がるのを確認する。機嫌は直った。わたしの3歩後ろをついてくる杉山が迷わないようにタラタラ歩き地下鉄の改札を抜ける。「どこで飲むんですか」「渋谷かな」「なんでそんなとこで」「なんかよくない?」「本当に鮎川さんは嫌な人だ」そう言いながら、わたしが顔を逸らしている瞬間は大きく表情を緩めているのがはっきりわかる。

電車を待っている瞬間も浮ついた彼の空気が読み取れて、気まずくなったわたしは彼に飲み物はいるかと訊いた。ブラックコーヒーを所望されたのでPASMOをかざすと残高がもうなくなっていた。ピーとなる音に思わず笑う。なんだかおかしくて笑いが止まらなくなる。自動販売機の前でげらげら笑うわたしに杉山は怪訝な顔をしている。もう早く、ホテルとか行っちゃおうと思った。身の回りの不可解も、杜撰なわたしの生活にあまりに馴染みすぎている。杉山が抱いている夢のような一瞬のときめきもわたしが適当に消費しても、誰もわたしを責めないだろう。