きらいになれないときは

日記とフィクション

秘密/孤独

昼休みにトイレに駆け込んでパンツを下ろすと、そこには鮮やかな赤とどす黒くなった赤が混じっていた。顔を近づけると鼻を歪めてしまうようなにおいがするけど、やめられず見てしまう。ゼリーみたいな大きな塊が張り付いていたから、なんだかラッキーと思ってさらにしばらく見てしまった。 時計は12:48、いつもより遅めの昼だがオフィスの周りにはチェーン店が多いから特に問題はない。というより今は食事よりこちらが気がかりである。 休日だった昨日は少し遠方に出かけていて、身軽でいたいからとほぼ手ぶらで出かけたら生理になった。歩いている時に「あっ」と思う。そそくさとコンビニへ寄って一旦トイレへ行き、やはりと思ってナプキンを探して雑誌が陳列されている棚の向かいの一番下の方を探す。少し埃をかぶっているしヘンテコなデザインだけどなんでもいい。店員をちらりと確認すると高校生アルバイト店員のような2人がタラタラとレジを回している。昼時は過ぎているのに人がやや多くて並んだ。財布は出さずにSuicaで支払いを済ませる。丁寧に茶色の紙袋に入れてくれたそれは1分もせずにトイレで開封させられて殻はゴミ箱へしまわれた。 綺麗な紙袋もかさばるからもういらない。こんなに短い運命でごめんと軽口を脳内で浮かべながら速攻で個室を出た。コンビニの外でコーヒーを飲みながら彼氏がタバコを吸って待っていた。 「ごめーんごめーん!」って、言っている自分がなんかむかつく。

人感センサーのせいで消えた照明が照らさないこの場所の、薄暗さの中で昨日の記憶が一瞬で脳をよぎる。別に不満はない。電気を付けたいからパンツを覗き込んでいた半身を勢いよく持ち上げる。電気は付いたが相変わらず下半身の鈍い重たさは変わらない。深い溜息をつき、口をギュウっと尖らせてから眉間に皺を寄せてみた。それからもう1回溜息をついて、ナプキンを取り替えて個室を後にした。

ふと思い出したようにルナルナを開いてカレンダーに昨日の日付を入力し、自分のことなのに未だに責任が持てないなあーと時計を見ながら思った。時計は13:26になっていた。まだ休憩の時間は残っているけれど食欲もないしもうデスクに戻ってしまおうと思い歩き出す。自身の勤める会社のビルの隣のビルの1階には喫煙所があり、今日は風が冷たかったから避難しに来ていた。いつもなら通りを挟んだ公園の奥にある喫煙所へ行く。ビル関係者以外は断りの文句が張り紙されることも多いがこのビルは1階にカフェが併設されているからなんとなく許されているのだろう。 自動ドアが開いた瞬間の強い風に前髪を勢いよく飛ばされた。思わず目を細めた瞬間に、脳裏にさっきのトイレの個室で見た自分のパンツを思い返した。 生き物は長い歴史の中で定期的に流れてくるこの血の塊によく順応したなあと思う。何回も見たから慣れているとどこかで理解しながらも、毎度新鮮な気持ちで血を眺めては非日常にそわそわした気持ちになる。

先日も布団のシーツを汚したばかりだ。10年以上も繰り返してきた経験のはずなのに未だに失敗をする。自分の意思ではない何かに左右されることに、慣れるなんてできないとどこかで反抗していたい気持ちが消えないからだと思う。 帰り道にポイント洗いの洗剤を買わなきゃと思い出しiPhoneでメモをした。

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明日は仕事だからと思っていたのに何故か家に帰りそびれてしまった。と、人に説明する瞬間はいつも「こうなることを望んで」いたはずなのだが、思考の一番外側にある事を選んで説明してしまうのはなんでだろう。

仕事が終わってエレベーターに乗ろうとした時にLINEを見たら連絡が来ていた。30分くらい前の通知で飲み会の誘いだった。今日の予定はないが、ここ数日の生理のせいでにおいが気になると思った。セックスすることが決まっているわけではないのにそんな心配ばかりをしている。 「今日は早く帰らなきゃいけないんだけど」と回答を明確に出さない返事を打ち様子を伺った。数分と待たずに返事が来て急遽向かう駅を変更した。 「ユウチもそうらしい!とりあえず飲もう!」というメッセージに脳内でいろんな判断をする。 これはもうこの数年で染み付いた無意識のものだ。

今日のメンバーはミホノ、タカギシ、ユウチだった。 ミホノはわたしの高校時代からの友人で同じ大学だった。最初は同じ軽音サークルに入ったがミホノはすぐに辞めた。思ったより華やかでない活動に嫌気が差したのだと言う。そして2年になる前にバドミントンサークルに入りその先輩であるタカギシと付き合った。 1つ年上のタカギシとユウチは同じ学年だったが、ユウチは浪人して大学へ入ったのでわたしとミホノより年齢は2個上だ。タカギシとユウチは同じ学部で入学式の日からよくつるんでいるらしい。

タカギシとミホノは付き合って長くなった。鳥貴族の狭いテーブル席に並んで座る2人の姿は見慣れた光景だ。わたしはタカギシと何度かセックスをしている。多分ミホノのほうが先にタカギシと寝たはずだが、大学時代はよく家にタカギシが来てはセックスをしていた。 そこにこじれた感情も問題もなかった。ミホノとタカギシの仲は睦まじく、周りからも数年の内に結婚するだろうと思われている。タッチパネルを2人で覗き込みながらミホノが言った。「もう鶏皮ポン酢ないってー!」飲み屋の中とは言えど大きすぎるボリュームで言うミホノにすぐ反応したのはユウチだった。 「トリキ来た意味ーー!」とさらに大きな声を張る。左半身がズシリと重くなるくらいユウチはわたしの横でのけぞってリアクションした。それを見てタカギシも大きな声です笑う。ミホノも、わたしも誘われるようにさらに笑った。

何回も同じ話を繰り返して同じような飲み会を繰り返してきた。今日も心地よく慣れた空気をそれぞれが順番に回して時間が経った。22時を過ぎた頃、会計を済ませて店を出た。トイレに寄っているミホノとユウチをエレベーター前で待っているとタカギシがわたしの腰を撫でる。 「今日も楽しかったなー、またすぐ飲もう」 「そうだねー」と笑いながら返事をするとユウチがやって来る。「おーい浮気すんな!」と真顔に近い表情を作り口もとをにやつかせる。すかさずわたしがそうだそうだと突っ込みながらタカギシの背中を叩く。そうして3人にどっと笑いが起きる。 ミホノが戻ってきたタイミングでエレベーターがやって来たのですぐに1階へ降りた。

地下鉄とJRで改札が離れていたのでミホノとタカギシとは店の前で別れた。ユウチと2人になって急に静かになる。 駅前の広場のそばにはコンビニが2軒あった。1軒は最近できたばかりのセブンイレブンで店内は狭いがお酒の種類がとにかく多い。特に会話をする事なく店へ入りロング缶を1本ずつ買った。また広場へ戻り植木のあるブロックへ座る。 「彼氏とどう?」緑茶割りを勢いよく流し込んだ後にユウチは訊いてきた。 「普通だねー、やさしいよ」と答えるとわたしも喉を鳴らしながら酒を飲んだ。それぞれが缶を飲み終えると喫煙所横のゴミ箱へ空き缶を捨てに行った。それから駅から離れて、坂道を登って15分くらい歩いた後にユウチの家に行った。

鉄と木を基調とした小綺麗なインテリアで作られた部屋には間接照明でボンヤリ照らされているパキラがあった。 植木鉢の横には小さな鉄製の霧吹きが置いてある。

ソファの横に脱いだ上着を折り畳まずに丸めて置いた後、靴下を脱いでその上に重ねておいた。 部屋全体は雰囲気があるがフローリングは薄く埃を被り、毛髪が多く散らばっているので床に荷物を置きたくは無いのだが最近は諦めてそうするのが習慣だった。 ここに来た後は朝早く起きて自宅へ帰りすぐにシャワーを浴びて二度寝をする。 ユウチの家の一番大きな窓にはカーテンがない。最近はやや日が登るのが遅くなったが明るいことには変わりないのでそのまま起きてしまうことにしていた。 早く起きてしまうし、家に帰る時間があるし、仕事はフレックスだし、別にこれでいいのだ。

0:14になり、シャワーから出てきたユウチがNetflixのメニューを眺め出す。わたしはソファの隣で氷の入ったグラスのウーロン茶を飲んでいた。大きな口を開いて流し込んだので思っていたより大きく喉が鳴った。「ハァー」と言いながら両手を上にあげて背すじを伸ばした。ユウチの家の洗濯物の匂いがわたしの鼻の中にやって来た。 甘たるくはなく、乾燥機によってふんわりとした心地よさをはらむ彼のLサイズのTシャツを着ているとフローリングの汚れのことなんて考えなくて良い。 ユウチの身体へ今度はわたしが半身を傾けて大きく体重を乗せた。背を反って首を上に向かって伸ばした時、会社のトイレでの昼休憩の記憶が頭をよぎった。

パンツをじっと見るために頭を下げているから脳から酸素が一時的に減り、ゆるやかな快感さえももたらしていた。 冷たい湿ったタイルの中にわたしだけがいた空間。 洗濯物の匂い、フローリングの埃のざらつきにこれが混ざって興奮した。

どうやってそれらが結びつくのかわからないが、その点と線の不明瞭さが余計にわたしをその思考に縛り付ける。

思考がぽんぽんと飛び交い、自分がユウチの部屋にいることも忘れてしまうくらいに思考を自由にさせた。わたしに寄りかかられたユウチは反射的にわたしの髪を撫でている。 ポン酢のジュレが乗った鯛の炙りの味を思い出す。視覚のイメージはあの血液の塊だ。黒くて鈍い、とても自分が生み出したとは思いたくないような物質だが毎月のように勝手に生まれては吸い取られて隠されて捨てられるのである。ああ、かわいそうと脳内で言う軽口に思わず自身の口元が緩んでいる事を自覚した。ユウチが不思議そうにこちらを黙って見ているので意味もなく息を大きく吸い込んで止めて見せた。それを見て彼もわたしの真似をする。 脳の酸素濃度は薄い。 気道を細くするように首を絞めると気持ちがいいが、それをしたくなった。

ユウチの持っているリモコンを奪い取り彼の背中をなぞった。痩せ型の腰の線は細く、背骨が少し盛り上がって決して太くはないのにパイプのような質感を出している。 そこからは目を閉じて、眠くなるまで思いのままにそれぞれが排泄のように気持ちのいいことをしていくことにした。 サービスをしない、けれど不快さのないセックスをする。 まだ血が残っていないか気になったけれど、自分の家でないから気にしないことにした。ユウチの家のシーツは白いものしかないようだけれど定期的にインテリアの配置が変わっているのを見るに物持ちのいいタイプではないはずだし、と推測しながらセックスをした。

終わってからわたしだけがシャワーを浴びて適当に髪を乾かしたら寝る。すっきりした気持ちで深い眠りに落ち帰るだけなのだが、寝る前と朝起きた時にユウチの顔を見ると苛つきを覚える。 ユウチは綺麗な二重瞼が印象的で日頃は大きな瞳が綺麗だけれど、閉じたまつ毛の形が一番好きだ。ただ眠い時の彼は全く人の話を聞き入れず本当はシャワーを浴びて欲しいと伝えても無視するように眠り込む。 素直にまつ毛を見つめていられる以外は腹立たしさが勝った。

帰宅後の二度寝から目覚めて会社に行く前にiPhoneを見るとユウチから連絡が来ていた。「今日の夜はひま?」 本当は洗濯物を回さなくてはいけなかったけれど急遽洗濯機のタイマーを解除してから家を出る。 無意識に家に帰らない準備が身体に染み付いている。

ユウチは仲間内でわたしといる時にわたしとほとんど目を合わせない。だが2人になると途端に無言でじりじりと距離を縮めてくるのだ。

そのくせ後から言葉を付け足す。 丁寧にお礼を言うことが「自分にとって都合よく動くことは当たり前だ」と言われているようでなんだか腹が立つ。 「わざわざ来てくれてありがとうね」 「こんな遅くなのに会いに来てくれて嬉しい」 こういうセリフで私が違和感なくユウチに溺れて、ユウチから離れていかないと無意識に信じている。

「はいよー」「わかった」なんて短い絵文字もつかない返事を数分開けて返事をすることで私が何にも気づかないことを丁寧に表明してしまうのもずっとこれまで守られてきたルールのようなものである。

退勤後に帰宅せずに彼の家の最寄りへ向かうと、寝癖も直していない部屋着のユウチがだるそうな身体の動きで迎えに来た。背の高い彼は存在感がありくたびれたパーカーでさえもそれらしさを見せている。 わたしの指を拾い上げるようにして手を繋いで住宅街の方向へ向かって歩き出す。

退屈な日常の中でユウチとセックスすることはもはや非日常にはならないし、何の起伏も産まないのだが、ユウチと寝ることは何となくラッキーな気がするからしてしまう。

ユウチはわたしに彼氏がいるとわたしに興奮するしセックスをする。自分が罪な人間であるというアクセサリーが性癖だというにおいが彼の部屋にはこもっているから解る。 ユウチのAesopのヒュイルの香りを僅かに残す首元が好きだ。この匂いは彼の自尊心を形にして、空気にして、わたしの脳に染み込ませてくる。

初めてタカギシがユウチを連れて飲み会に来た時にわたしは直感でこの人とセックスをすると感じた。 それは、恋と呼ぶには気味の悪い自己愛だ。 ユウチがわたしを見つめてくる視線に快感を感じた。愛情とは明らかに違うが、わたしと同じ体温をしているのだとすぐに解った。 ミホノとのセックスだけでは物足りないとわたしに言うタカギシが持っている感情と並べたらおそらく同じ色。

学生の頃、夏休み期間に4人でドライブでペンションへ行った時がある。その時、あまり飲めないからとタカギシが持ってきたジェンガで遊んだ。ぐらぐらと揺れている小さな木の集合体は微妙なバランスで成り立っていたがなかなか雪崩れたりはしない。ミホノが大声で騒ぎ、ユウチが突っ込みタカギシが笑う。それを眺めるわたしという様式美をわたしたちは愛していた。 思いついたままにユウチへ「夏休みまたペンション行こうよー」と言うと「もち ろん」とふざけた軽い返事が返ってくる。

自分の意思ではなく、無意識がこの状況を生み出してしまう。もう大人なのだから予想もつくし、予測ができても、そうだ。 わたしの中でルナルナがほとんど機能していないのも無意識にわたしが支配されているからで、理性に立ち向かえないからだ。

ユウチはわたしに彼氏ができるとタカギシを飲みに誘い、ミホノを誘い、わたしを誘う。 先月ミホノと遊んだ時に彼氏ができた事を報告したばかりだった。

「こうなることを望んで」わたしは消費される事を快感として受容れてしまう。男がわたしを消費する時の自尊心や感情の表皮がたまらなく気持ちいいのだ。

ユウチの部屋は、昨日来たばかりなのでほとんど様子は変わらない。唯一違う点であるパキラの影が大きく見えるのは昨日と照明のモードを変えているからだった。

同じように上着を床に投げるようにして置いた。勢いをつけすぎたのかバサリと音がした。 ユウチは家にいる時TVをつけたりはしない。静かな夜に換気扇の音だけが響いている。 寝支度を済ませ、ソファへ座りコップの氷を鳴らす。そして昨日と同じ流れ、同じ会話でまたユウチとセックスをしようとした時、下半身に重さを感じ「あっ」と思った。

先日終わったばかりなのになぜ、と思ったが思考は停止して動きを止めなかった。わたしの名前を呼びながら額に張り付いた髪をユウチが掬い上げていく。脳は、冷静に判断をして正しい対処を理解している。

ソファのすぐ横にあるベッドへ移動しようと腰を上げた時にユウチが言った。 「生理終わったばっかりだと思ってた」 ソファに沁みるほど血が出ていた。薄暗いオレンジの照明の中で血の色は鈍い。咄嗟に謝りながらティッシュに手を伸ばし辺りを拭った。

ユウチは手を洗うようわたしを促しキッチンまで連れていく。蛍光灯に照らされた指を見ると血の色は赤かった。鮮やかで少しベタついていて、小さい絵の具の塊のような粒は想像以上に肌の上を滑って伸びた。 「綺麗だね」というとユウチはわたしの顔をまじまじと見る。 「おれときみは一生側にいることはないけど、時々こうして寄り添っていたいのは、おれときみの汚さと綺麗さが似ていると考えているからです」

急にユウチがそう伝えてきてわたしは目を丸くした。 その後すぐ気持ち悪いなあと思った。 それから、とても気持ち悪い彼が好きだと思った。

わたしの腕に伸びた赤い血の筋をユウチがなぞるのを見ながらトイレでナプキンを1人で見つめた時間のことを思った。自惚れた瞳で斜め上を向いたユウチを見てまたさらに興奮する。 口元のにやけが止まらない。