きらいになれないときは

日記とフィクション

オレンジ

 

あまりにも短い時間だった。

茶店は土曜の昼らしく適度に混んでいた。

注文してから、10分は待ったがそれの半分も話さなかった。

コーヒーカップにはややオレンジがかったラメ入りのグロスがすこし付いている。

昔、コーヒー占いというハッシュタグが付いたインスタの投稿が好きだったなと思い出す。あ、そういえば元気してるかな、まだやってるのかな、そういえばあの人いくつなんだっけ。最近全然見ないなと思い返し、彼のインターネット上の名前を検索したくなった。その時ちょうど店員が私たちのテーブルのコップに水を注ぎにきたので、それは出来なかった。そして、一口飲んできみが席を立った。

 

店にひとりになった後、なんとなくGoogle検索窓を開いて「コーヒー 値段 平均」と検索してみた。当然ながら、たくさんの回答を用意してくれた世界一の検索エンジンは普段となにも変わらなかった。いくつかリンクを開いたが、あまり面白いと思えるものは出てこなかった。もう一度試しに別の単語で検索する。「時間 潰し方 無料」と打って出た画面には、中学生の頃の私ならきっと面白おかしく読んでいただろうなという内容がたくさん出てきた。

あぁ、そういえばもっと昔ってなんでも素直に笑う姿勢があったよね、とぼんやり思う。「なんでも素直に、って実はもうできないことだよ」と近所の犬が死ぬ間際に言っていた。

 

ツイッターハッシュタグ「#我が家のペット自慢」で、きみが貼っていたのは柴犬だった。毛並みが良くて少し骨太な感じの犬だった。余程飼い主に懐いているのか、こちらを向いて笑うきみの上に顎を乗せて写っていた。私はと言うと、酔っ払った帰り道に撮影してブレている近所の猫の写真をふざけて載せた。実家で飼っていた犬の写真を投稿するか迷ったが、あまり懐かれていないため妙なアングルの写真しか見つからず、ハッシュタグの趣旨に合ったものを素直に選べなかった。

私が載せたその猫は、黒猫だったので暗闇と混ざっていて携帯のカメラ画質だと何だかよくわからない。だから、きみからメッセージが来た時は驚いた。「近所かも」とダイレクトメッセージの通知に4文字だけが表示されていた。

 

きみの顔はよく見ていた。ツイッターのIDをインスタグラムで検索したら、そのままきみが出てきた。鍵もかけずに全世界にきみの日常は広げられていたから、きみが友達とよく飲んでいる公園も、地面に転がって寝てしまうほど飲んでいた居酒屋も、工事がなかなか終わらないあの場所も全部見えていた。だから私だけが知っていたはずだった。

画面のほとんどを黒が占めるあの写真の猫は、きみの友達の勤めている店によく来る猫なのだそうだ。「美味しいし、おれ、お酒いつも安くしてもらってる」というので、「土曜の夜ならヒマだ」と言った。「じゃあ多分おれもいる」と返ってきたので一緒に行こうと言う意味ではなかったんだなと、寝る間際に思い出して少し恥ずかしくなった。 

土曜日は16時ごろ目覚めた。起きてすぐにシャワーを浴びた。瞼がいつもより重くて憂鬱だった。風呂場の鏡はほとんど曇ってしまっていてよく見えない。水垢を落とすために時々思い出したようにネットで検索した知識を試すも、うまく落ちなかったためだ。暗闇で光る画面を長時間眺める生活にも関わらず、視力だけは良かったので、この鏡を見るたびにメガネの人々の世界ってこんな感じなのだろうかと思っていた。

 

風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かす。いつのまにか細くなった髪がよく絡み、時たま痛む。目の荒いブラシを使いながらブローをして、ワンピースに着替えた。 濃いブルーの靴下を履いてローファーを選んだ後に、一度部屋に戻った。そして靴下を脱ぎ、洗濯カゴへ投げた。一発でちゃんとゴールし、日々の生活の杜撰さを実感する。気を取り直すように、新しく買ったポインテッドトゥのミュールを箱から出した。緩衝材を捨て、もう一度風呂場に戻る。ユニットバスってイヤだな、と思いながら鏡に顔をぐっと近づけた。マスカラのついた睫毛の先を整えて、リップを塗り直す。まだ時間は18時過ぎくらいだったが、これ以上前髪を触ってしまうと、せっかく固めたのが台無しになるので新しい靴を履いて家を出た。

 

家から5分ほど歩いた先の商店街の一本隣の路地にその店はあった。地下1Fで看板は出ているものの、とても入りづらかった。ドリンクメニューが小さな英字で書かれているが、本当にこの店であっているのか不安になった。連絡を取ろうにも、電話番号やLINEは知らない。きみのインターネットの最後の投稿からは3時間ほど経っているし、約束もしていないのにわざわざ確認するのも変な気がした。おそらくオープンしたばかりの時間だが、他に行きたいところもないのでひとまず階段を降りようとした。

すると、後ろから声がした。私のインターネットの名前を呼ぶ、はじめて聞く声だった。

 

「実は、前からちょっと気になってたんだよね」と表情をほとんど崩さずにきみは言った。カウンターに横並びになって、前菜の盛り合わせをつまんでいた。店内の照明は薄暗いものの、通りから想像するより賑やかな雰囲気だった。フロアは広くもないが、身内だけでやっている感じがある店が持つ特有の居心地の悪さはなかった。「写真とか、呟いてる内容とか、趣味が合いそうだなって」と続ける。店に入って最初に声をかけてきた、きみのお友達の店員がドリンクをサーブしながら「おれの前で口説くなよ」と笑う。

私は、目の前にいるきみの睫毛の長さに驚いていた。「健康な感じがする」と口にすると「きみはもっと不健康かと思った」と目を細めた。

 

店を出る時、アルコールがしっかりと身体に入り込んでいて、頭に酸素が少ない感じがした。「もっとゆっくり飲めばいいのに」と、きみは道端で買った水のペットボトルを私に差し出した。私は、ただ笑ってきみのもう片方の手を掴むようにして握った。

「ゆっくり、ゆっくりだよ」ときみは言った。「はい!」と適当に返事をして走り出そうとすると、きみは私の汗ばんだ手を握り直して制止した。「ゆっくり進もう」きみの横顔を見た。綺麗な鼻筋の先に、車のライトが次々に光る。

タクシーが街に急に増えた。大きな道路沿いに出たので、車の音で少し声が遠くなる。きみの顔は、これまで光る画面の中では見たことのない顔だった。

 

それから、私たちは約束をして会うようになった。

2週間おきくらいだった約束が、1週間に何度もされた。

きみの話をたくさん聞いた。旅行に行った先で飲み過ぎて目的地へ行くフェリーを逃したこと、帰省するためのお金がなく友達の荷物として高速バスに乗ろうとしたことなど、変な話をしてくれたほか、最近聞いている音楽のおすすめなどをしてくれた。

 

お友達の店だけでなく、近所をいろいろ巡った。よく猫が散歩している道をきみは教えてくれた。「この公園を渡った先にあるラーメン屋でまずご飯をもらって、そのあとはコンビニの前で座ってる。そうすると通りがかりに人にもご飯がもらえるから」といいながらしゃがみこみ、猫と遊び出すきみはiPhoneの中で見ていた顔よりも、随分若く見えた。

 

「そういえば、おれ、きみのこと全然知らない」

2時過ぎの駅前で、3軒飲み屋をはしごした後に発されたきみの言葉はいつもより遠くに聞こえた。金曜日のこの状況では当然だ。辺りには植木に突っ込むように眠る人や、ずっと言い争いをしている人もいる。

「もっときみの声を聞かせて」とだけ返した。

 

 

頭の中でまわる余計なことたちは、放っておけば止めどなく、朝までやっているこの店もさすがに閉まって追い出されてしまうだろう。喫煙可能、駅から近く、深夜営業、喫茶店にしてはいつも騒がしいこの店は店員のやる気が著しく低い。お客様に合わせてのことだろうか。暇になるとすぐ店員同士で集まってカウンタ脇で雑談している。アルバイトの大半は近所の大学生で、ヘラヘラと笑いながら「テストが」「課題が」「合宿が」などと話している。さすがに今の時間はそれぞれが店内をぐるぐると動き回っていて、テストも課題も合宿も彼らの頭にはないだろう。私もアルバイトを始めようかな、なんて考える。おんなじ動きを繰り返し、変なお客様を眺めて、退勤までの時間を気にしてみたいなと思った。

 

店が落ち着いてきた頃に、やることがなくなったのか初老の店員が再び水を入れに来た。若い店員が視界の端に映る。コップを店員側に差し出そうとした時、iPhoneが床に落ちた。一旦そのままにして、水をもらった後にそれを拾い上げると液晶の端が少し割れていた。縦に線が入り、表示が少しおかしくなっている。携帯電話を割ってしまったのは初めてのことだった。

 

気がつけば指先はするりと、このぬるい温度に触れている。明るい日差しの下ではうまく見えないので、左手で影を作りながら見つめる。深夜の静かなベッドでは腰を折って丸まりながら、光る画面を伏せて、ラジオを聞いた。誰かの眩しい夏や、血みどろの孤独、5秒で消費されていく生活を覗いて朝を待つ。これが日常だった。赤と緑と青の3色しか、私は持っていなかったのだ。

 グラデーションするきみの髪の色が、私の瞳に映ったのを意識した時、涙が出そうになったのを思い出した。けれど、泣いてしまうとカラーコンタクトまで取れてしまいそうだったから少し遠くにあるビルの看板を見つめていた。

 

 

「始まりなんてなんでも良いんだよ」と言ったきみの意見に100%同意できなかった。本当はここで出会いたかった。本当はあの本屋で出会いたかった。映画館で、古着屋で、雑貨屋で。偶然会いたかった。こんなにも、近くにきみはいたのに、出会えなかった。

 

ガタリと音を立てて席を立った。階段を降りて喫茶店を出た後、駅までの道をゆっくりと歩くことが出来なかった。目の前の景色はどんどん移り変わっていく。18歳で東京に出てきた当初は、街を歩くたび多くの人に声をかけられていたが、もう今はほとんどそんなことはない。表情を固めて、足早に進む。もう、この速度でしか歩けなかった。ヒールとコンクリートがぶつかる音が硬い。玄関にたくさんある、もう履けなくなった靴たちを思った。これから、このヒールも私の歩く癖に合わせて斜めにすり減っていく。

 

電車に乗ろうと思った。まだ昼間だと思っていたが、気がつけば日が傾きだしていた。次から次へとホームにやってくる電車を眺めた。一番早く渋谷に出る電車は次の電車だ。 その時にはもう、空は暗くなっているだろう。

 

薄い膜が、いつでも私の瞳にまとわりついている。本当は暗い瞳の色を明るく変えている。私の瞳を見る、きみの前髪の温度が見えた。カーテンの隙間から入ってくる西日がきみの脱色した髪に透ける。薄い唇の端を上げながら、わたしの瞼に触れた指。マスカラもアイシャドウも全て落としてしまった後の素肌。「本当の色が知りたいよ」ときみは言った。

「これを剥がしてしまったら、私なんて、何もなくなっちゃうよ」と、言えなかった。

カーテンへ手を伸ばし、光を遮った。きみの髪の細い影がシーツから消えた。

太陽が傾きだしてから夜になるまでの、あのオレンジの時は長かった。