きらいになれないときは

日記とフィクション

ゴールデンハムスターみさこ

昨日のご飯が思い出せない。この炒め物はいつ作られたものなんだろう。私は部屋の真ん中にあるテーブルの前に座って、手作りのご飯たちに手をつけようとしていた。ひき肉の炒め物とワカメのスープと白米、そこそこ手の込んだメニューだ。台所のマットには細かい人参のかすがたくさん散らばっていた。普段は料理をする際、少しの油汚れや汁のハネなども掃除をするのだが、どうやら足元のひどい様から見るに、私の視野はかなり狭まっていたらしい。と、いうより目の前が見えていたのかすらわからない。なにしろ全く覚えていないのである。昨日の17時過ぎに友達のえっちゃんに電話をしたあたりから記憶がない。えっちゃんと何を話したのか思い出そうとすると、空っぽの脳みそを無理やり動かしているみたいで不快だ。えっちゃんは大学時代に一人暮らしをしていた時分からハムスターを飼っていた。そのハムスターの名前は「みさこ」というが、これは私の名前でもある。みさこはゴールデンハムスターで通常の体型より少し丸っとしていて可愛い。しかし飼い主の目は厳しく、しばしばえっちゃんはみさこに「動け、動け」と滑車を走るように言いつけていた。ハムスターにはそんなことは聞き分けられないため、代わりに私が返事をしていた。「ハイ、ハイ、走ります」そうすると私たちは二人できゃあきゃあ笑っていたのだけれど、今の私はなんだか本当にゴールデンハムスターになってしまったみたいだ。カシャカシャ音を立てて走り周るのに、あれは何度見ても意味があるように思えない。小さな思い出せないことを見つけるたびに頭が痛む。滑車のような小さな部屋の中でハムスターになってしまった。小さな手足でワタワタと走るみさこはバカっぽかった。 頭がまだ半分ボーッとし、不鮮明な何かが脳内に置き去りにされている感覚がある。それは元々の病気のせいではなく、自分の誤った行動のためである。最近の私がハマっていること。それは滑車のスピードを上げていくことだ。 処方されている薬を5,6倍の量で飲むと大抵記憶が抜け落ちてしまう。その間、意識が続いていればいいのだけれどどうやら私の体が停止する前に2,3時間は記憶なしに動き回っている。その間の行動は様々だが基本的には他人とコミュニケーションを取ろうとしている。LINEで通話をしたり、久しぶりの相手に連絡してみたり、フラフラ外に出てそのまま道で寝てしまったこともある。その時は、当時付き合っていた彼氏に会いに行くとメッセージを送った数十分後に発見された(元彼氏談)。もちろんすぐに振られた。 薬を毎日同じ時間に同じ量に飲むことは、もう1ヶ月も前にやめてしまった。寝る前、何もやることがない昼間に思い出したように適当な薬を適当な量飲む。それぞれの効用は特に気にしない。飲むたびにいちいち量や種類を確認しない。適当に、遊び半分で飲んでいる。そうすると先ほどのような行動ののち、眠ってしまう。眠れない時もある。その時は焼酎かウィスキーを合わせて飲む。大した量は必要ない。そしてタバコを吸い携帯をいじったり、音楽やラジオを聞いてベッドに入る。そうすると時間があっという間に時間は過ぎる。余計なことは何考えないので自由に行動もできているらしい。ただ、その記憶はなくなってしまうのだけれど。 どうせなら楽しい気分になれたらいいのに、と咳止めシロップや錠剤を大量に飲むこともたまにある。だがそれは常にできることではない。第一の理由としてお金がかかること。その次に近所の薬局で続けて同じ薬を買うと怪しまれてしまうこと。また、この薬の効能にもあまり気乗りしない理由がある。だいたい30錠くらいを飲んだ後は身体が元気になり、よく動ける。溜まっていた家事以外にも水場の掃除や靴磨きなんかもやってしまえる。きちんと気持ち良さも感じることができる。ずっと伸びをしているような気持ちよさが続き、痺れるような感覚だ。深夜に飲めば眠る必要はなく、ずっと起きていられる。ただその代わりに、情報の受容量がとても多くなってしまう。普段考えていることの100倍くらいのことが頭に浮かぶ。マンガの描写に「?」がたくさん脳内に表示されるというものがあるが、それにかなり近い感覚がある。目の前に広がる全ての物事が不思議で、そしてよく視える。そのためとても疲れてしまう。また、薬が切れた後に辛い時もある。2回目に大量摂取をした際、適量がわからず錠剤を60錠くらいまとめて飲んでみた。するとかなり気持ちの良い効果が訪れたが、電車に乗ってみると少しの揺れで胃の中身を全て吐いてしまいそうになり、手や足の震えが止まらない。冷たい汗が全身を走り、停車駅のベンチでしばらく動けなくなった。いつもは笑わないお笑いのネタで数時間笑い続けたと思ったら、その後呼吸することすら気分が悪く、トイレに篭ってみたりもした。身体が不自然に硬直し、指先や首を無意識に曲げてしまった。眼球がこぼれそうなくらい目が開き、やや上を向いてしまう。あの時はずっとその状態が終わらないんじゃないかと思って少し怖かった。だから私はあまりもう咳止めは使わない。 ただ、スピードが少し上がればいい。生活のスピードがもっと早くなればいい。薄暗い部屋の中で過ぎる時は多分人間世界のそれより少し遅い。出来の悪いゴールデンハムスターのみさこは、まだ一生懸命には頭を空っぽにして滑車を回せない。だから記憶をすっぽ抜く。バカみたいだけどやめられない。他人が用意したみたいな自分の手料理を食べる。いつもと味は変わらない。あまりお腹が空いていないため、少しだけ手をつけてラップをした。小さな器に移して冷蔵庫にしまい、テーブルを台拭きで拭いた。それから、台所のマットにたくさん散らばった細かい人参を拾い上げてそのまま口に入れた。少し時間が経ってしまったためか水分が抜けている。ボリボリと音がした。あぁ、これじゃあウサギみたいだな、とカシャカシャ走るゴールデンハムスターみさこは呟いた。