きらいになれないときは

日記とフィクション

相対

 

 

 

《親知らずが生えてきたよ怖いから歯医者には行かない》

 

いつまで若者でいられるのだろうかいつまで鬱屈した気持ちとか不安とか、そういうのと戦ってうまくいかないままの自分でも認めてもらえていられるのだろう

大人、になってしまうと認めてもらえてなくても生きていかなくてはいかないのかな

自分が自分であることを、自分で認めてあげなきゃいけないなと焦る夕方 カーテンは閉じて暗い部屋

SNSで歪む口 眉間によるシワ 可愛くない

 

 

ふと考えてしまったのは自分の幸せと人の幸せの形

自分の幸せを感じるのにどうして相対性が必要になってしまうのだろう、とかいう悩みは中高で使い古して

今はまだその先の具体的な解決案をネリネネリネリなど、と思うも

出来ることは結局自分に言い聞かせる等のあまり説得力のないもの

 

 

アルバイトに行きたくないな、とか

あの子のツイートはなんか嫌いだなとか

ああいう時期はもう過ぎたなとか

そういうふうに自由に言えるのはいつまでなんだろうか

 

何と無くだけど、私が若者でいられる時期はもうすぐで終わってしまう気がする

ただそれは「社会人」とかそういうわかりやすい区切りではないということ

きっとふと頭の中で理解できるタイミングができて急に切り替えていかなくてはいけなくなって

そうして私が死んでしまう、気がする

 

 

悪い意味ではきっとないのだけど

別れを告げるのが怖い 

未完成でいたい

完成などできないけれど

諦めることはできてしまうからなあと

嘆き、嘆き嘆き

 

 

夕方になるにつれてなんだか鼻先のツンとした痛みが増してきた気がする

今日だけは、という気分は私の悪癖

でもやめられずに不安と焦り

モラトリアム、延長

 

 

 

 

 

多様性の時代

なのですから

人がどうだっていいのにな

 

いいのにな

 

 

 

幸せになって欲しいなとかそんなふうに

勝手に落ち込んでしまうのはなんでだろう

勝手に不幸な気持ちにされる必要なんてないのにな

無責任さという残酷さまたしても

考え始めると自分への愛が復活

もう何も考えたくなってしまうというオチ

 

 

見えすぎるのがいけないのでは?とここ数年考えているけど非情なのかなそれは

 

 

常にニュースに飛びついてアレコレ意見しなくてはいけないのに疲れました

というこれまた素直な趣のない言葉

 

 

 

 

知らない人に怒り

知らない人に「お気持ちお察しします」

 

昨日まで考えてもなかったくせに

「お悔やみ申し上げます」

みんなきらい

 

 

 

いいよそういうの、って意地悪すぎるね

 

 

 

 

 

 

と、崩壊した論理性

サヨナラ論理〜

 

 

 

 

 

 

 

 

小さなことを溜め込んでブツブツ

抱え込んで一飲み

 

アルバイトへ行くまであと10分

 

 

 

 

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これは海

と、空

 

 

 

まっすぐな線を見ていると落ち着く

色も綺麗だし

 

 

 

 

オワリ

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みんな呪いにかかっている

私も

 

魔法になれたら

いいのにな

 

 

単なる懐古主義でない

新しい時代の魔法に なりたい