きらいになれないときは

日記とフィクション

「愛している」は、しまっておいて

 

 

陽の傾いた教室にはただひとりだけが残されていた。

校庭に見えるのは小さな豆粒と綺麗な星で、千奈美にとってその風景は毎日の生活だった。

毎朝セーラー服を着て、食パンを齧り、太腿に力を込めてペダルを押して、風で舞って散らかった前髪を整える日々が彼女の毎日だった。

 

 

 

八時半からホームルームまでの時間は決まって『読書の時間』が設けられていた。

教室の多くは眠気や恋愛や日付と宿題と授業の関連性に関する考察が存在したが、千奈美は『読書の時間』には読書をするという選択肢以外は持っていなかった。

 

 

 

 

千奈美が今月三番目に選んだ本は夏目漱石の『それから』だった。先月には『三四郎』を読んでいたのだけれど、その間に発売されたエンタメ小説が面白くそちらに興味を惹かれていた。

千奈美にとって夏目漱石は人のいい先生だった。

人がいいから先生のことは嫌いではないのだけれど、どんなにいい先生が勉強を教えたところで千奈美には勉強が退屈で仕方なかった。

 

けれど、『読書の時間』を意図するところを考えると千奈美にはそういった選択をするしかなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

一日はざわめきと束の間の沈黙とで過ぎる。それは毎日のこと。

人の声はさまざまな思いを含んで廊下を行き交い教室の隅に溜まって放課後には箒で掃かれて学校の隅に捨てられてしまった。

 

学校の花壇は校務員と緑化委員が育てている。その花を綺麗だと思う人と、花よりも綺麗な人を見つめる人、花の存在に気づかずに三年間が終わる人がいる。

校長先生は毎週の集会で生徒は花だと言った。学校は花壇なのだという。

千奈美は校長先生の話の途中に倒れた三組の吉原くんは大丈夫だっただろうか、と思った。

 

 

 

教室の外に目を向けると、まだ星は煌めいていた。机に顔を伏せると高く響いて突き抜ける金管楽器の音がした。

 

 

 

『読書の時間』に落とした『三四郎』を拾い上げたのは隣の席の天野くんだった。

どうして本を落としてしまったのかはわからなかったけれど、それまで知り得る知識やざわめきの中にあった感触から千奈美にあった変化に名前を付けることは容易かった。

 

 

 

すべての授業が終わった後にまっすぐに向かう階段。上った先の二つ目の教室。

そこから見える景色。

それが千奈美の毎日になった。

 

 

 

 

『読書の時間』が一日に二回あるという毎日。

朝はなんだか気が散ってしまうために設けた特別枠。

ほぼ全員が部活動に入っているので、多くの生徒は図書室には目もくれずに部室や体育館校庭美術室音楽室に散らばった。

そのため今日も放課後の図書室にはひとり残された。

なんだかそれが千奈美には自分だけに与えられた特別に感じた。

 

 

きっと音楽室で感じた惨めさも隠された上履きも悪戯書きをされたノートも伝えて貰えなかったパート別懇親会の日付も、この静けさのためだったのだと思った。

 

明るかった頃から聞こえてくる金管楽器の音だけが耳障りだった。

 

 

 

千奈美にとってこの毎日は満足だった。

ほとんど人が使わない閲覧席に書いた文字はきっと誰にも読まれないのである。

 

ここから見える煌めきに向けた溜め息は誰にも気づかれないはずだ。

 

 

唇を何度か上下させて、小説に学んだ台詞をいくつかなぞる。

音にはせず、丁寧に形を思い出しながらなぞるのだ。

 

 

 

図書室にあるいくつもの哲学よりも神秘的な行為だと感じていた。

テレビやiPhoneの中にあった使い古された言葉さえも自分のものにできる感覚さえあった。

 

 

 

けれど、ひと通りをなぞる頃かたむいていた陽はすっかり落ちてしまっていたので千奈美は最後まで取っておいた言葉は明日に持ち越すことにした。

 

席を立ち、振り返って見える橙の残り香、きっと冷たい空気と、残された本を見た。

きっと誰かの忘れ物だろうと思った。

 

 

千奈美はその題を確認して本棚に戻した。

きちんと、しまっておこう。

 

 

 

 

 

きちんと。